絵画に意味を持たせた絵はギリシャ神話やキリスト教のような典拠に基づく物ばかりではありません。時には静物画でも象徴物を描いて特定の意味が表現されました。元は宗教画や歴史画は解釈に教養を要する高尚なものであり、静物画や風景画は解釈する必要のない通俗的なものと考えられていたために、静物画は寓意を表現するような複雑な発展は遂げませんでした。しかし、例外なのがオランダのようなプロテスタントの国です。
キリスト教には大きく分けてカトリックとプロテスタントという分け方があります。法王を最高権威とするカトリックに反発して、偶像崇拝を禁じ、聖書の教えのみに従うと考えたものがプロテスタントです。プロテスタントの国であったオランダでは教会がキリスト教の教義を主題にした作品を発注する事がなく、他国で高尚な絵画とされる宗教画が発展しませんでした。そして、イタリアやその他のカトリックの国とは違った絵画の発展を遂げました。そのため、オランダでは風景画や静物画や花卉画でも名品がたくさんあります。そういった背景の中で、静物画に教訓的な意味を持たせるという流れが生まれました。
静物画でよく取り上げられた寓意がヴァニタスです。ヴァニタスとは、旧約聖書の「伝道の書(コヘレトの言葉)」冒頭の一節のラテン語「ヴァニタス・ヴァニタートゥム Vanitas Vanitatum」に由来するそうです。
コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。
わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。
いつかは行かなければならないあの陰府(よみ)には、仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ。
八坂書房 「静物画」より
ヴァニタスは虚栄、生のはかなさ、現世の虚しさなどと訳されます。日本にも諸行無常という仏教観があるので比較的理解し易い観念だと思います。しかし、やはり西洋の無常と東洋の無常は多少違う部分もあるようです。ヴァニタスは現世の財産や知識は全て虚しいものであり、時は全てを奪い、死には現世のどんなものも逆らえない、という事を意味しています。
ヴァニタスに使われる図像は数多くあります。砂時計、懐中時計、蝋燭などは時間の虚しさを表します。覆された杯、水差し、椀などは虚ろさを。冠、笏杖などは権力の虚しさを。宝石、財布、硬貨は富の虚しさを。地球儀は現世の虚しさを。煙やシャボン玉は儚いものの虚しさを。書物は知識の虚しさを表現します。さらに花は美しいものの儚さを表し、剣などは武力が死に対する防御を果たさない事を示します。
「静物-人生の空しさの寓意」 ハルメン・ステーンウェイク
この絵はヴァニタスの説明で最もよく見る作品です。やはり一番目立つのは中央のドクロです。誰もがドクロを見れば死を連想することでしょう。ドクロは瞑想のアトリビュートでもありますが、ほとんどの場合はヴァニタスを意味します。
そこによりかかる上質な装丁がされた書物は知識のはかなさを表現します。西洋の無常観では、知識すらも無常なものとされました。旧約聖書の「伝道の書」にはこのような一文があります。
書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。
すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ人間のすべて。
神は、善をも悪をも、一切の業を、隠れたこともすべて、裁きの座に引き出されるだろう。
いくら知識を得ても死に抗う術はありません。死によってどれだけ権力のある人間も、富を持つ人間も、そして博学な人間も、等しく滅びさるのです。
ドクロの上にはランプが見えます。よく見るとランプからは煙が出ているのがわかるります。煙は儚い存在として人生の儚さを象徴します。
ドクロとランプの間にあるのは日本刀です。日本刀がこの時代の絵画に描かれるのには驚きですが、これは武力を意味すると共に、蒐集家好みの高級な品であることから富の象徴でもあります。日本刀の先にあるのは珍しく美しい貝です。貝も蒐集の対象となっており、これも富を象徴します。絹のショールも富を表します。富は現世でしか意味を成さない虚しい物の代表的な存在です。
日本刀の柄の部分に見えるのは懐中時計です。時は全てを奪い去ります。
一番手前に見える楽器や本の上に乗るラッパは五感の聴覚を表します。ラッパの上にある酒壺は味覚を表します。これらのような五感の喜びも、現世の虚しさを表します。